和歌山母親大会

日本母親大会のあゆみ-はじまりの頃-

日本の婦人のよびかけで世界母親大会開かれる

ビキニ環礁におけるアメリカの水爆実験(1954年)によ って、日本の漁船が被爆し、久保山愛吉さんの生命がうばわれたことから、三たび原爆を許すまいと、「原水爆反対運動」が日本中にもえあがり、婦人たちも、この運動にいちはやく参加したのでした。日本婦人団体連合会の平塚らいてうさんらは、こうした日本 婦人たちのたたかいと平和への願いを全世界の婦人に知らせようと、国際民婦連に、「原水爆禁止のための訴え」を送りました。これがきっかけとなって、「母の名において死から生命を守り、憎しみから友情を守り、戦争から平和を守るために団結して行動しよう。」(アピール)と、1955年、スイス・ローザンヌで世界母親大会が開催されたのです。(日本14名参加。)

世界母親大会準備会の席上、イスラエルの母親が叫んだ言葉

土地は基地にするために
あるのではなく
作物をつくるためにあるのであり

海は軍艦を浮かべるために
あるのではなく
漁をするためにあるのであり

子どもは戦争で殺すために
あるのではなく
親子ともども
幸せになるために
あるのです

涙の大会から 平和を守る決意へ

日本母親大会

世界母親大会開催の1ヵ月前、第1回日本母親大会が開かれ、全国から2,000人が集まりました。「お母さん集まりましょう。」というよびかけや〝母親大会〟いう名に、理屈ぬきの共感をもったお母さんたちが、ひとりで、または2、3人の仲間と、あるいは先生に連れられて参加したのでした。1955年6月のことでした。こうして、〝ふつうの女たち〟が初めて人前でたどたどしい言葉で、自分たちの思いのたけを語り始めました。次々とつぶされる炭坑、基地周辺のようす、子どもたちのこと、死の灰をあびた広島・長崎、戦後の苦しい生活、また、久保山すずさんの訴え。涙、涙の大会となりました。この年以来、母親が手をつなぎ、平和を守ろうと、毎年母親大会が開かれてきました。

ギリシャの詩人ペリディスから 世界母親大会に寄せられた詩

生命(いのち)を生みだす母親は 生命(いのち)を育て 生命(いのち)を守ることをのぞみます

わたしには小さな息子があった
あしたにはゆりおこして髪をとかし
なだめては一杯のミルクをのませ
戸口に立って学校へ見送った
息子の肩は通りいっぱい広がって
そのあとを
わたしの金色のゆめが追いかけたものだ

わたしには小さな息子があった
わたしはあの日を待っていた
わたしの臨終を見守ってくれ
ふるえる手でわたしの髪をなで
「お母さん ご幸福な旅路を
心配しないで下さい
あのオリーブの木のように
あなたはいつだって
わたしの心の中に生きています」
とでもいうかのように
わたしを見守ってくれるときを

わたしには息子があった 息子があった
わたしには息子があった 息子があった
だが、彼らがわたしの息子を殺してしまった

「生命(いのち)を生みだす母親は 生命(いのち)を育て 生命(いのち)を守ることをのぞみます」 は、母親大会の唯一のスローガンとして引き継がれてきました。

日本母親大会-はじまりの頃-

第2回(1956)

実行委員会をつくり大会開催。4,000人参加。運動のすすめ方・・・日常の地域の運動が大切。ひとりぼっちの母親に呼びかける。えらい人をつくらないで、みんなで話し合い、みんなで責任をもつ。家庭婦人・職場の婦人が手を結び行動する。話し合いから共通の目標に向かって行動へ。

第3回(1957)

6,000人参加。〝母親運動〟の表現を用い意義付ける。話し合いから行動へ。20万のアンケートで分科会の原型を作る。

第4回(1958)

2日で、のべ15,000人参加。勤評反対声明・・・政府批判の立場に立つ。

第5回(1959)

3日で、のべ12,000人参加。全分科会で安保討議〝平和を守ることがアカならば日本中の母親はみんなアカになりましょう〟初めて母親行進を行う。

第6回(1960)

安保自然承認される。3日で、29,500人参加。平和の分科会最大となる。労働婦 人の参加が半数を超え、タテかヨコかの組織論議をする。

第7回(1961)

3日で、30,000人参加。初めて基調報告。〝機構運営の申し合わせ〟を半年の討議を経て決定。

第8回(1962)

初めての地方(京都・大阪)開催。2日で、のべ30,000人。大会最大規模となり、全体会が二部制となる。10月、新日本婦人の会が結成される。

母親が変われば、社会は変わる

母親が変われば、社会が変わる。
みなさん、しっかりしましょう。
母親が変われば、社会が変わる。
母親が変われば、社会が変わる。
(河崎 なつ)

河崎なつさんは、波乱の第12回日本母親大会で、東京体育館の全体会の壇上から渾身の力をふりしぼり、12,000の母親・女性たちに、こう呼びかけた。

戦前は多くの学校で教鞭をとり、戦後新憲法による第1回参議院選挙に全国区から立候補して当選。同窓生や教え子たちもあげて支援し、票の入っていない県は一つもなかったという。在任の6年間、厚生委員として母と子の問題、働く女性の問題を国会で論じた。

その後は、平和な未来を願い世界母親大会代表団の団長の任を果たし、日本母親大会初代委員長として第12回大会まで務め、同年、堂々とした人生を全うした。

日本母親大会のあゆみは、『日本母親大会 50年のあゆみ』(2009年)、 毎年の大会に出される『日本母親大会のしおり』に掲載されています。

和歌山県母親大会のはじまり

母と女教師の会から母親大会へ

ひたすらあゆみつづけて

1954年、母と女教師が手をつなごうと日教組のよびかけで生まれた〝母と女教師の会〟が全国的につくられ、和歌山県でも第1回母と女教師の会が開かれました。第2回目は、第1回日本母親大会の報告を中心に、その後も多くの報告会が県下でもたれました。こうした状況をうけ、和歌山県では、〝母と女教師の会〟は、「平和を守り、子どもの幸せ、くらしを守る」という同じ願いをもつ母親大会に発展解消し、1956年、第1回和歌山県母親大会が勝浦小学校で開催されたのです。1957年、愛媛に始まった教師への勤務評定、続いて60年安保改定にむけて、母親が政治に目をむけ、政府への批判をはっきり意思表示するようになってから、母親大会への攻撃が始まりました。第3回県大会の会場問題でも、当時の小野知事が「和教組の石原先生が事務局長をしておられるから…」を理由に、労働会館の使用を許可しない(話し合いで許可となったが)、教育委員会、PTAの後援が打ち切られるなど、今日までの道のりは、平坦なものではありませんでした。1961年、県母親大会連絡会が確立し、郡市・地域で母親運動をすすめる中で、各地で地域連絡会がうまれ、母親運動が県下に根づきました。その中で、県大会は、毎年1,000人を超える参加者で成功し、日本大会へも多数の参加者を送り出してきています。

(資料)第1回和歌山県母親大会の記録

第2回日本母親大会(8月)は、全国から4,000人の婦人たちが集まりました。和歌山県からも31人が参加し、大きな感動を持ち帰って、各地で報告集会が開催されていきました。

そして、「和歌山県でも幅広い婦人が集う『母親大会』を開催したい」という声が大きくなり、労働組合の婦人代表らが何度も会合を開いて話し合いを重ねました。

結果、地区労の民主的な運営が確立されていて、教職員と地域・保護者との結びつきも強い東牟婁が候補にあがる中で、東牟婁の婦人たちから、「私たちが引き受けましょう。むしろ、私たちの方から開催を希望しましょう。」と声が上がりました。

実行委員長に中尾歳子さん(和解連)、事務局長に石原笹枝さん(和教組)を選出し、準備が進められていきました。

ついに、1956年12月2日、当時は一学年6クラスという県下有数の大規模校であった勝浦小学校を会場として、第1回和歌山県母親大会が開催されました。

朝から「母親大会に参加しましょう」と町内放送が流され、知事を始め何通も祝電が届く中、学校の先生、各校PTA、婦人会、地域の人々がこぞって集い、2,200人(内、東牟婁1,000人余)が参加するという大規模な大会となりました。

記録によれば、分科会と全体会という形式で、要求を話し合い、参加者の感想を集め、後日総括会議も開くという、現在の母親大会の原型が第1回目からできていました。

*近畿母親大会10/13~14京都二條中学校で開催された。
(県母連の記録、東牟婁の記録、参加者からの聞き取りより)

わきたつ勤評反対! 安保反対!

民主教育・平和を守ろうと・・・・

1957年から58年にかけて文部省から教師に勤務評定が押しつけられてきました。 和歌山県でも、教組との話し合いなかばにして、教育委員会が、勤評を抜き打ち実施しようとする中で、教師たちは、「勤評は、戦争への一里塚」だと、反対運動に立ち上がりました。

母親たちは、勤評についての学習会を重ねた末、「民主教育をそこなう勤評には反対」という態度を明確に打ち出し、教組など七者共闘のたたかいを支援し、闘いました。この勤評反対闘争は、母親大会として政府の政策にはっきり批判の態度をとった最初でした。政治に目を向け始めた母親たちは、さらに、安保闘争にもすすんで参加していきました。

(資料)勤評闘争の思い出、立ち上がった婦人教師は強い

和教組元婦人部長 石原 笹枝 手記より抜粋

和教組を中心に、七者共闘から動員された仲間は、教育委員会の廊下にあふれ、・・・一向に進行しない教委の不誠意に怒り、歯をくいしばり、こぶしを握りしめていました。しかし、みんなは疲れていました。職場での討論、地教委交渉、地域の父母との話し合いなど、連日の闘いに、さすがにその顔色はかくせないものがありました。その時、突然一女教師の「夕やけこやけ」の歌声が全員の士気を高揚して、沸きあがるようにその歌声は、県庁の建物にこだまする大合唱になりました。

8月末、婦人部長を含む県役員が逮捕され、西署に連行されました。留置された先生方に対する激励行動に婦人教師も積極的に加わって、連日交代でトラックに乗り込み、西署周辺をマイクで、「婦人部長、がんばって下さい。身体は大丈夫ですか。」などと叫び続ける姿は、かつてない画期的な闘いでした。

勤評が抜き打ちに実施された後、海草の婦人部は、困難な中で母親大会を組織し、大きな成果を収めました。参加者500名、講師として児童相談所所長、お客として地教委委員長が招かれました。所長の教師批判には、婦人部長が毅然とした反論をし、また、教育委員長の「お母さん方は政治にタッチしない方がいい。」と言った批判に対しても、母親が立ち上がり「異議がある。私たちは、終戦まで政治にうとくされていた。そのために、男ばかりであの大東亜戦争を巻き起こしたのだ。婦人が政治を見守り、政治に介入する権利を持っていたら、あんな悲惨な目に合わなかっただろう。これからは大いに政治にタッチし、政治を正しい方向に進めるために見守らねばならないと思う。」と発言しました。会場中われるような拍手が起こりました。

以上、県母連冊子『わたしたちはあゆみつづける』より

和歌山県母親大会連絡会の組織と活動

和歌山県母親大会連絡会について

事務局所在地 和歌山市小松原通3-20 県教育会館内
TEL 073-423-2261(和教組)
FAX 073-436—3243(和教組)

和歌山県の地方(郡市)・地域連絡会

和歌山県の母親運動の中心は、各郡市母親連絡会です。和歌山県母 親大会の成功を支え、各郡市母親大会を組織します。

  • 伊都・橋本母親大会連絡会
  • 那賀母親大会連絡会
  • 和歌山市母親大会連絡会
  • 海南・海草母親大会連絡会
  • 有田郡市母親大会連絡会
  • 日高郡市母親大会連絡会
  • 西牟婁母親大会連絡会
  • 東牟婁母親大会連絡会

各地の要求運動を大切にし、地域連絡会の組織づくりを展望します。民主団体や労働組合(女性部)は、県・地方(郡市)・地域母親連絡会に加盟し、それぞれの独自運動を展開しつつ、統一的に母親運動をつよめます。年一回の母親大会に要求と運動を持ち寄り交流します。また、個人でも連絡会に加盟し、母親運動に参加することができます。

母親運動を進めるためにこんな取組みをすすめましょう

  1. 職場・地域で小集会を組織し、要求をほりおこします。特に、地域の一人ぼっちのお母さんへはたらきかけをつよめます。
  2. 母親運動の性格・歴史・かちとってきた成果等について、学習を深めます。また、要求別課題について、学習を組織します。
  3. 職場・地域・郡市連絡会を確立します。
  4. 要求実現のために、職場及び自治体に向けて行動します。
  5. 地域集会・郡市・県・日本大会成功のとりくみをつよめます。
  6. 職場・地域・郡市・県段階で、母親ニュースを発行します。
  7. 連絡会活動の保障・大会成功・要求実現のための財政を確立します。
  8. 地域共闘の計画するとりくみに積極的に参加し、活動をつよめます。