和歌山母親大会

くらし・子どもを守る母親運動①

1960年代~2000年代

県母連冊子『わたしたちはあゆみつづける』より

小児マヒから子どもを守ろう - みのった母親たちの大運動

小児マヒが集団発生した(1959年)のに、政府は手持ちのワクチンがほとんどないために適切な措置をほどこすことができず、地域の母親たちは恐怖にさらされました。 予防接種を要求する全国的な運動の中で、和歌山でも県へ請願におしかけました。湯浅町では、「母の会」(町母連の前身)が中心となり、慣れない中で、四度も署名を取り直すなど、ねばり強い運動の力で、町長たちを厚生省へ請願に行かせることができました。一年余にわたるこうした全国各地のたたかいによって、ソ連(一千万人分)、カナダ(三百万人分)から生ワクチンを輸入させ、無料接種を実現しました。そして、小児マヒの流行をくいとめました。

アメリカの脱脂粉乳を生牛乳に

「え?脱脂粉乳の中に長ぐつが」「スパナ、釘など入っているのよ」そうです。戦後日本の子どもたちは、アメリカではぶたのえさにしている脱脂ミルクを輸入して飲まされていました。教師も子どもも下痢を起こしたり、悪臭のため鼻をつまんで飲んでいました。母親たちはこんな状況を見逃すことができず、教師といっしょに「生牛乳を飲ましてください。」と立ち上がりました。この運動を進めていった女教師に対して、不当配転をするなどの攻撃もありましたが、母親と教師の願いが実って、1964年から生牛乳へと変わっていきました。

ポストの数ほど保育所を

70年代、お母さんが安心して働けるようにと、地域で自治体交渉をすすめ設置されていきました。日赤「あすなろ保育園」も日赤労働組合は病院へ、また母親連絡会としてみんなといっしょに県当局へ何度も足を運び、運動の末うまれたのです。とにかく自分たちでつくろうとお母さん2人と子ども2人、保母さん2人で出発した湯浅の「ひまわり保育所」は、すべて自分たちで運営し、大きくなる中で、認可運動をすすめ認可されたのです。

子どもたちを交通戦争から守ろう

年々自動車が増え続ける中で、大人も子どもたちが悲惨な交通事故に巻き込まれる危険が高まってきました。それは、「交通戦争」と呼ばれるほどの1年間の件数にものぼりました。母親たちは、子どもたちを交通事故から守ろうと、「安全な遊び場を増やして!」、「カーブミラーや横断歩道に信号機を設置して!」「歩道橋を造って!」と、全国各地で要求運動を広げ、次々と実現させていきました。

(資料)交通事故から子どもを守ろう 要求実現はみんなが集まって

新婦人海草支部『50年の思い出と歩みを語る会』より

「海南市のA地区の新興住宅に住んで、子育て中の人らが仲良く集まっていろいろやってきたね。 近くに国道ができるときも、安全にわたる所がないのにと、みんな怒って、子どもを学校に行かせられないと言ったら、校長先生らが毎朝見に来てくれたよ。先にトンネルができたけれど、遠いから歩道橋を造ってほしいと、何十人ものお母さんらが集まって言いに行って造ってもらった。何かあると言ったら、お母さんらが集まるようになったんよ。 近くの海沿いにできた石油工場の煙突からくさい煙が出るし爆発したら危険というので、抗議に行ったこともあった。資材置き場も公園にしてほしいと言って公園になった。 それから、国道が危なくて、向こう側のポストに郵便を入れに行けないと、こちら側にポストを設置させた。いろんな要求運動をしたと思う。 ほんまにすごかったな。びっくりするほど人が集まるんやと思うて。 「歩道橋つけてほしいって、あっちにもこっちにも広がってな。新婦人の会員だけとちがって、地域のお母さんも多かったわ。Y先生に、算数の水道方式を教えてもろて、毎日のようにやったこともあったよ。」(2013年9月)

こうした取り組みが各地で行われ、母親パワーが発揮される中で、生活や子どもを守る要求が実現していきました。

地域に根づいた母親運動 要求は宝 実現はみんなの力で

  • 老人・乳幼児の医療費を無料にさせた。
    • 2才児未満の乳幼児医療費の無料化を実現させた。
      (1973年1月より)
    • 老人医療費無料69才からを、67才からという県独自措置を実現させた。
      (1973年10月より)
  • 恐ろしい有害物質・添加物の追放を。 有田川の鵜の体内から濃度のPCBが検出された事実を知り、県交渉の結果、分析機械一台検査技師の増員なる。
  • 学校給食用パンに添加されているリジンに微量ながら発ガン性物質 が含まれていることが分かり、県教育委員会へ「安全性」がわかるま で使用中止を要請し、中止となる。(1975年9月)
  • サルチル酸(防腐剤)の使用をやめるよう申し入れ、県議会厚生委員 の前で実験、お酒の検査液を落とすと、イヤラシイ紫色に変色。さ すがの議員さんも、ウーッ。
  • 子どもたちの放課後をゆたかに、10年間の運動が実って1973 年、県下で初めて田辺第三小学校区に学童保育所がつくられました。
  • 避妊器具の自動販売機撤去運動や悪書追放運動も展開しました。
  • 海南市黒江地区の土地の低い所では、大雨が降ると、家の中へ汚水が流れこみました。市へ申し入れ、そんな時はくみとり料を無料にさせました。
  • 「有害の合成洗剤の使用をやめて、安全な母親シャボン石けんを使いましょう。」―この運動の広がりの中で、 スーパーマーケットの洗剤売り場の一角に、〝無公害洗剤コーナー〟が設置されました。
  • 光化学スモッグの被害をなくそうと母連や民主団体からの請願が市 議会で取り上げられたことがきっかけとなって、学校にNO2測定 器が設置されました。
  • 学校給食に町の補助金を。連日つめかけた母親たちの熱意で、白浜町から燃料費100万円を出させました。
  • 子どもたちが自由に遊べる広場を。各地にチビッ子広場がつくられていきました。
  • 子どもの教育について語り合おうと、婦人教師と母親が中心になって、地域懇談会が開かれていきました。
  • 子どもたちを交通戦争から守ろう。各地域に信号機や歩道橋、カーブミラーが取り付けられていきました。
  • 「日本は経済大国になったから、人工妊娠中絶の許可条件の中から経済的理由を削除」という優生保護法一部「改正」の動きに対して、県市町村への反対請願、国会、厚生省へのジャンボはがき、街頭宣伝などあらゆる取組みをし、国会への上程をおさえました。(1983年)

県母親大会連絡会の対県交渉

毎年の和歌山県母親大会では、分科会の中で、「子ども、教育、くらし、食の安全、労働、平和」等々、多岐にわたって切実な願いや要求が話し合われ、一致できたことを「申し合わせ」としてまとめてきました。そして、それに基づき、地域で要求運動を起こし、和歌山県に制度化を迫ってきました。

対県交渉の当日は、各部局・課の担当者が前にずらっと並ぶ中、母親たちが一歩も引かない熱意で切々と訴えることを繰り返し、上記のようなさまざまな要求を一つ一つ実現させてきたのです。

わたしたちは あゆみつづける

労働運動の右傾化がすすむ中、1980年6月、日教組が日本母連を脱退、つづいて総評及び各単組も同調する事態となりました。日本母親大会にとって大きな危機ではありましたが、より草の根の母親運動を広げていこうと取り組み、この年の第26回大会も、2日間でのべ17,500人が参加し成功させることができました。以後、日本母親大会はのべ20,000人の集会を続けてきました。しかし、各府県母連の中では、教職員組合をはじめ大きな労働組合の参加・協力が得られない中で、一時期県大会が開けない、財政や事務局問題が起こるなど困難な状況に陥ることもありました。そうしたことも、新婦人などの民主団体が中心となって、地道に建て直して行くことができました。和歌山県においては、和教組、和高教が労働運動の右傾化に抗し民主的な教職員運動を堅持してきました。県母連も、母親運動の発展を考えて事務所の独立を試みた数年を除き、一貫して和教組に事務局を置く形で今日に至りました。毎年、郡市母連が交替で県大会の開催地を受け持ち、各地の特色ある県大会を続けてきました。県母連として、毎年の「申し合わせ事項」を整理し、一つでも要求を前進・実現させるために対県交渉を大事にし、続けてきました。今後さらに、加盟団体の組織状況や若い世代の意識と要求、情勢の変化に機敏に対応し、時代が求める母親運動を進めていきます。